南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

思想信条と詩(価値観の研究=その4)

 難しい問いかけをしたついでに、芸術と思想信条との関係についても考えてみたい。

 話をわかりやすくするために、たとえば、戦争について。

 そのときどきの社会環境によってどういう立場から書いたほうが書きやすいとか発表しやすいとかが決まる。だから、絶対的な基準は立てにくいだろう。
 その国の発展段階や政治情勢、経済状況、社会構造、宗教事情等さまざまな要素がからまりあって現実の状況はあるので、戦争反対、戦争賛成、中立とかの立場も相対的になりやすい。今の日本においてなら、戦争反対が当然だが、戦時中だったら、事情はまったくちがっただろう。

 ある立場をもとに詩を書くことはどうか?
 それは自由だと思う。
 立場が違う人の書いた詩をどう評価するか?
 これはむずかしい。
 戦争反対のひとが戦争賛成のひとの書いた詩を読んで感動することはありえないと思うから。

 では、立場が違えば、詩もまた違ってきて、相容れないということになるのか?

 思想信条を超えてひとりの人間として喜怒哀楽を共有することはできないのか?

 宗教も思想も信条も人間が生み出してきた文化だ。
それらの違いは大きいが、その違いを超越して共存共栄する方法はないのか?

 詩もまた、そういう次元で書き、読むことは不可能なのか?

 この問いにもいろいろな答えがありうる。
 統一的な答えが出るとは思えない。

 だが、こういう問いが繰り返しなされてきた事実は重い。

 今現在の日本においてさえ、以上のような問いは各個人に重くのしかかり、
政治状況と類似の詩的状況が見られると思う。

 歴史認識の統一が困難なように
詩の評価もまたばらばらでしかありえないのだろうか?

 相容れないグループがそれぞれのグループ内で詩作を続けていく以外に道はないのだろうか?