南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『社会心理と個人の心理』(価Ⅲ=32)

  

          『 社会心理と個人の心理 』

                                  価値観の研究第三部その32

1.個人個人は極めて穏健で冷静で合理的な判断と行動をしても、団体として行動するときはまた別の要素が加わる。

 群集心理といわれるものもその典型的な例だろう。
 ある集会やデモに参加しているときに警察から制止されて抵抗しもみあって
暴力沙汰に至るというようなことがある。個人では暴力をふるうなどということはまずない人でも群衆としては過激な行動に移すこともある。

 団体にもいろいろな段階があり、大きくは国家ということになる。
 ひとつの国がなにかを決定する仕組みの代表が、三権分立であり、国民から見れば、代表的なのは国会議員の選挙である。選挙は社会心理が現れる。時とともに変化し与党と野党も入れ替わる。議員も入れ替わる。内閣も交代する。
変動する不安定な社会心理ではあるが、その結果は法的な根拠と権限を持つ決定的な権力システムとして機能する。

 平和をめざし、基本的人権を尊重する民主的な政府であってほしいが、それをもたらすのは不安定な国民の心理である。不安定な社会心理というものが安定性と堅実性が求められる国家権力を左右するわけである。

 ギリシアにおける統治制度などについて、民主主義について衆愚政治であるとの指摘がなされたりするが、だからと言って専制統治がすぐれているとも言えないだろう。多数決という仕組みも絶対ではないものの、現在までの人類の経験と知恵が見出したひとつの選択であると言えよう。

2.社会心理学という学問分野もあるとは思うが、人間の集団行動についてまだまだ十分な科学的解明がなされているとは思えない。

 過去の例を見ると、演説が巧みで、人心掌握術にたけ、強大な独裁権力を手中にし、苛酷な統制により国民を不幸に突き落とした為政者はかなりの数に上る。

 多くの場合は、何らかの軍事的、外交的、政治的、経済的な不安定や社会不安などにより人心が荒廃しているような状況においてナショナリズムが支持を得て権力を掌握したようなケースが多い。

 振り返れば、なんと愚かなことをしたのか、ちょっと考えればおかしいとわかるようなことを防げなかったのか、というような気持ちになるだろうが、実際にはそんなことが起こってしまったのである。

 社会心理というのは、暴走するおそれを秘めており、いったん火が付けばそれをコントロールすることが難しくなることがある。我が国でも総選挙や参議院選挙などの推移を見れば、そのような国民の心理の不可思議な変化を痛感するだろう。

 社会心理が国を危険な方向へ向かわせることがあるかもしれない。そういうとき、いかに安全な方向へ舵を切ることができるかは重大な課題である。今のところは、確実な方法が見当たらないので、基本的には政府を信頼しつつ、良識ある個人が積極的に発信し、訴えるというような地道な行動を積み重ねるということぐらいしか考えられない。

 いすれにしても、世界各地でさまざまな紛争が起きている現実を前にすると、少しでも紛争解決や未然防止の方策が見出されること及びそれが実施されることが望まれる。