南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「菱田春草展」を見て

      

        「菱田春草展を見て」



 平成26年10月3日、東京国立近代美術館で開催中の菱田春草展を見た。
 その感想をすこし記しておきたい。

1. さまざまな描き方の試み

 菱田春草は、それまでの日本画の伝統的な技法を問い直して新たな技法を追求しつづけた。
 たとえば対象物の輪郭線を描かずに色彩の使い方によってかたちを浮かび上がらせるというような試みが代表的である。日本画の世界では「朦朧体」と批判されたらしいが、岡倉天心横山大観と行った欧米では評価が高かったようである。
 百点ほどの絵を見て感じたのは、さまざまな技法の実験の集大成が「落葉」に結実したということである。「落葉」は、構図といい、色彩といい、完璧な出来栄えを示している。こんなふうに樹木を描いた画家はいなかったと思う。写実の技法を根底にしつつそれを装飾的に様式化することで、斬新な画面を作り上げた。

2. 菱田春草の短すぎた人生

 菱田春草は、明治7年(1874年)に長野県飯田で生まれて、明治44年(1911年)に東京で亡くなった(享年36歳)。
 腎臓炎とそれに伴う眼疾患に苦しんだ短い一生だった。
 画家にとって視力を失うことは、音楽家が聴力を失う以上の致命的な悲劇である。天才画家が眼病に襲われたという運命は過酷であり皮肉なものだった。
 しかし、菱田春草は、短い人生ながら、画家として前人未到の高みに達した。
 春草は草創期の東京美術学校を卒業後、岡倉覚三(天心)の日本美術院創立に参加した。
 明治36年、横山大観とともにインドへ、そして明治37年、天心、大観とともに欧米を訪れた後、明治39年、天心が日本美術院茨城県五浦へ移したのに伴い、大観らとともに同地に移って絵の制作に励んだが、明治41年、眼病治療のため東京に戻った。
 「落葉」という作品は完璧な仕上がりを示した傑作だが、春草34歳の作である。仮に春草が生き続けたとしたら、その後どのような作品を残したかを想像するのも興味深い。
 36歳で短い人生にピリオドを打ったわけだが、結婚もし子供も作りながら画業に打ち込んだ人生は果敢であり、挑戦的であり、多くの目覚しい成果を上げた。畏敬と称賛の念を抜きに振り返ることはできない。

3. 印象に残る作品

 今回の展覧会に出品されたおよそ百点の作品の中で、特に印象に残った作品を上げれば、「武蔵野」(1898年、23歳)、「菊慈童」(1900年、25歳)、「王昭君」(重要文化財、1902年、27歳)、「落葉」(重要文化財、1909年、34歳)などである。なお、この日、有名な「黒き猫」は、展示されていなかった。
 「武蔵野」は、春草らしさが惜しみなく発揮された初期の佳品である。草の描き方が秀逸であるし、草に止まる小鳥の姿が寂寥感を巧みに醸し出している。
 「菊慈童」は、中国の故事に基づく、菊の効能で数百年生きながらえたとされる児童の小さな姿が、複雑な色彩で描かれた山林の背景の中で活き活きと描かれている。「朦朧体」と言われた色彩の使い方が印象的な作品である。
 「王昭君」。前漢時代、匈奴の王から漢人の女性を妻にしたいと要請を受けた元帝は、後宮の女性の中から最も醜い女性を似顔絵帳によって選ぶことにした。似顔絵を描く画家に賄賂を贈らなかったことにより、絶世の美女であるにも関わらず最も醜く描かれた王昭君が、匈奴に嫁がされることになった。宮女たちの中の王昭君の悲しいようすを描いた作品である。
 この絵は、宮女だけが描かれ、人物の配置や姿勢や表情や衣装が計算し尽くされている。背景の省略が人物を浮き上がらせる効果を高めている。
 「落葉」という作品は数作残されているようだが、特に、明治42年制作の作品は目をみはるような傑作である。樹木、草花、落葉、地面などの描き方は写実生と装飾性を兼ね合わせており、構図といい、色彩といい、樹木の描き方といい、絵画表現の極致に達した作品である。
 
 今回の菱田春草展は、菱田春草の傑出した画業をあらためて確認し、傑作を観賞する喜びを存分に味わうことの出来た展覧会であった。