南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

言葉と行動(価値観の研究=その25)

 昨日のイベントでの谷川俊太郎の発言に、「言葉は現実のほんの一部しか表現できない。言葉は不完全なものだ。現実は複雑で矛盾に満ちたものだ。言葉より行動を重視すべきだ。」という趣旨のことがあった。

 昔から「不言実行」とか「有言実行」とか「言行不一致」とかいろいろ言われる。言うこととやることが一致しない場合がけっこう多いということだろう。

 「価値観の体系」を論じるとき、とりあえず、「言語表現」が重要だと述べた。と同時に、言語には策略がからんでいて、文字通り受け止めることができないこと、タブーのように表現を避けるべきこと、意図的な韜晦や誤謬、不用意な発言、能力不足による不適切な発言、など解釈が不可欠であることも述べた。さらに、発言をフォローしていき、発言者がどんな行動をしたかということを見極めて、発言と行動を比較検討する必要がある。多くの場合、言行は完全には一致しないだろう。複雑な要素がからむので、微妙なずれが生じやすいから。

 もし、「発言」と「行動」にちがいがあったときに、どちらを重視すべきだろうか?

 やはり、「行動」がそのひとの「本音」に近いと見るべきだろう。

 現実には、「発言」と「行動」は入り組んでおり、発言が行動そのものだったりもするし、不作為という事態もあったりするので、ふたつを峻別するのが困難な場合もあるだろう。

 話をわかりやすくするために単純なケースについて述べるとすれば、まさに、「行動」こそ現実としての影響力を強く持っている。

 恋愛関係にある男女を想定しよう。

 「好きだ。愛している。早く結婚して幸せな家庭を作ろう。」などといいながら、

さっぱり結婚について具体的な行動を起こさない男がいたら、それは多分、ほんとうには結婚する気がないか、少なくとも迷いがあると考えた方がいいだろう。

 国際関係にも、そういう場合が頻繁に見られる。

 以上のように「言語」と「行動」の関係は、とらえるのがむずかしいが、行動が優先するからといって、言語をみがく意味がないというわけではないと思う。あいまいな側面を強く持つことは避けられないとしても、少しでも正確に意思疎通ができるように努力することは大切なことだと思う。

 特に、言葉というのは、個人的な伝達手段ではなく、社会的なものだから、個人の努力だけでは限界がる。社会全体が、言語に対して前向きの姿勢をとることが必要だと思う。