南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

人間関係=その10(全体と部分)(価値観の研究=その37)

 人間関係には距離感がたいせつだと述べた。
 では、人間同士は、どのようにかかわりあうのだろうか?

 わかりやすい例を引こう。

 夫婦の場合だ。しかも、相思相愛の夫婦の場合だ。
 精神的にも肉体的にも完全に一体化していると感じあう。
 こころもからだも素直に裸になれる。素になれる。理想的な関係だ。うそもいらない。かけひきもいら
ない。喜怒哀楽はあっても、憎しみや妬みがあっても修復可能だ。疲れたり、健康状態が思わしくないときには、それなりに放置しておける。元気なときは夢中で話したり、出かけたり、愛し合ったりする。

 理想型としての人間関係は「全的な」人間関係といえよう。
 実際には、存在しない。それに限りなく近いということはあっても。
 いわば、ふたつの円が重なり合う面積のように、ひとによって人間関係の面積は異なる。
たとえば、親友でも、病気のことや借金のこと、恋人のことは秘密にするかもしれない。
 90%の重なり。

 ふつうの友人関係なら、それなりのプライバシーもすこしは知っているが、知らないことも多いだろう。60%の重なり。

 顔見知り程度なら、あいさつぐらいはしても、プライバシーには立ち入らない。天気のことやテレビのニュースなどあたりさわりのないことを話題にする。重なり具合は、30%。

 顔と名前がかろうじて一致する程度なら。10%。

 おそらく、仕事の取引相手とは、せいぜい30%だろう。なかには意気投合できる場合もあるかもしれないが。

 さて、相性が悪くて、接点を持つべきではないのに、もってしまったことにより、嫌悪感や憎悪が残ってしまった場合は、(マイナス)-?%だ。

 こういう場合は、できるだけ接点を持たないようにして、マイナスが消えるのを待つべきだろう。どうしても顔を合わさざるを得ない場合は、忍耐心が求められる。じっと我慢するしかない。

 一種の比喩でしかないかもしれないが、人間関係には、全的な関係=100%の信頼関係を理想としながら、現実には、部分的な人間関係が形成されるしかないという(?%)ことに注意すべきだろう。