南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

責任(価Ⅱ=その16)

16.責任


 「責任をだれがとるか?」は、さまざまな局面できわめて重要である。

 年金保険の問題で、被保険者の台帳をきちんと管理していなかったことへの責任とか、
血液製剤によって肝炎にかかった患者が発生したことへの責任とか、食品の賞味期限をごまかしたことへの責任とか、国家のレベルから個人的なレベルまで、実に多岐にわたって責任問題は発生する。

 責任はいくつかの類型に分けて考えることが出来よう。
まず、法的責任。これは、法律によって一定の義務を負っている者がその義務違反を行った場合とか、一般的に禁止されている行為を違法に行った者が発生した場合とかに、その責任を追及するというものである。たとえば、納税義務を負う者が不正に脱税したときとか、ある者が無免許で車を運転したときとかである。このようなときは、比較的責任の所在は明確なので、責任も問いやすいし、責任の取り方もはっきりしている。

 しかし、道義的責任とか社会的責任となると、それがあいまいになりやすい。
 土地買収の達人が、立ち退きを迫ってうまく立ち退かせたことにより、その一家が家庭崩壊に至り、前途を悲観した主人が自殺してしまった。というようなケースでは、法的責任は問えないとしても、やり方がえげつない場合であれば、世間からは「なにもそこまでやることはなかったのじゃないか!」というような批判を浴びるおそれがあるだろう。
こういう場合は、責任があるのかどうかも不明確だし、責任の取り方もあいまいである。

 ちいさなところでは、二人の友達にそれぞれ「あいつがきみの悪口を言っているよ!」と告げ口をしたら、ふたりがけんかをして相手にけがをさせてしまった場合など、どこまで責任をとるべきかの判断はむずかしいだろう。

 社会保険庁の問題にしても、大臣、次官、長官、局長、部長、課長、係長、係員など、多くの関係者がいて、しかも人事異動で何代もの職員がかかわってきているので、だれが責任を負うべきかの判定がきわめてむずかしいようだ。だからといって、責任追及の努力をやめてしまってもいいというわけではない。根気よく調査を続けていくことが求められるだろう。この場合も、法的責任を問える範囲とか、罰則の適用について的確な判断が求められるだろう。

 責任と一口で言っても、以上のように、事情はさまざまである。きちんと場合分けをして、事実関係を整理したうえで、だれにどれだけの責任を問いうるかを決定し、ペナルティを与えるという手続きが必要だと思う。

 法律レベル、社会レベル、その他のレベルにおけるなんらかの判断基準と判断しうる能力と権限(または権威)を持った者の存在が求められると思う。ヒステリックにならずに、公明正大な措置をとれるだけのシズテムと人材が。

 責任逃れを許さないためには、多くのひとびとの健全な協力が不可欠だと思う。