南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 大義名分ということ 』(価Ⅲ=24)

  

     『 大義名分ということ 』

                             価値観の研究第三部その24


1.人間には生きる意味があるかどうかと正面から問われれば答えに窮する場合もあるだろう。後付けの理屈はいろいろ言えるが、そもそも『生まれてきてしまった』人間には生まれるかどうかの選択権がないのだから、答えのない問いだと言えよう。

2.人間が生きるということについてどんなに虚無的な捉え方をしても、生きている以上は腹も減れば眠くもなりさまざまな快不快に直面する。理屈以前にさまざまなことに追いまくられ対応を迫られる現実がある。そのうち、おいしい食べ物や酒、高級な衣服、豪邸、恋愛、スポーツ、芸術、旅行など多くの楽しみを発見して、生きているのも悪くはないと考えるようになるかもしれない。

3.ところで、衣食足りて礼節を知る、と言われるように、欲望に突き動かされて行動している段階から、自分の行為が正義や正当性に則っているかどうかを気に掛ける段階へと移ったとき、どのようにしてそれを判断するかは重要な問題となる。

 政治、経済、社会、文化に加えて、歴史、民族、宗教、などの制約を受けつつ物事を判断せざるを得ない人間にとって、絶対正義は見出しがたいだろう。たとえば、テロとの戦いでテロリストを軍事的作戦により殺戮することは正義だろうか?テロリストのサイドから見ると事情は違って見えるかもしれないし、異なる正義があるかもしれない。

 正当防衛でひとを殺すこともある。恋人を殺された仕返しに犯人を殺すことはどうか?現行刑法では正当化されない。

 なにかをするときにはそれなりの理由があるが、殺し合いのような極端な場合は、どこかで正当化という過程が存在することが多い。
 人間は「大義名分」を求めることで良心の呵責なしに、他人を攻撃することができるのだろう。

 人間の心理と行動は不可思議なものだと思う。