南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

生老病死(価Ⅱ=19)

 いかに生きるかとか、生きるための最低条件とか、生きるための努力とか、生きるための競争とか、生きるための戦いとか、生きることにまつわる議論はこれまでにかなり深く論じてきたが、病気や死については、かならずしも十分に論じてきてはいないことに気がついた。

1.死について

 古今東西の歴史を振り返ると、人間が死をどうとらえるかは意外と単純ではないことに気づく。
 今でこそ、死を恐れ、死をまぬかれようと必死の努力をすることが当然であり、否定されることはないが、時代によっては、主君や王のために命を投げ出すことが潔いとされたことは多々あった。殉死とか殉教とか言う言葉は、それをよく示している。

 お国のためにとか親兄弟のためにとか国民のためにとかの大義名分で喜んで死んでいったひとびともきわめて多かった。本音がどうだったかまではよくわからないけれども。恐怖にかられたひとびとがいてもふしぎではなかっただろう。

 死にたくないという今なら当たり前の願望も、時代や社会環境によっては卑怯者扱いをされたことがあったという冷厳な事実を忘れてはならないだろう。

 死についてもやはり「価値観」があり、「死生観」というものをしっかりと考えておく必要があると思われる。だれも死をまぬかれないが、いつ死ぬかは不明確な場合が多い。そこで、殺しもまたひとつのビジネスになりえる余地が生じる。

 死ぬのが恐い、死にたくないと言うものが多い中で、死を恐れないものや死を恐れてはならないと説くものがいると、疑問を感じたり、尊敬の念を感じたり、圧倒されたりする。

2.老いについて

 老いもまた、避けられないものだ。
 老いて、体力が低下し、病気にかかりやすくなり、社会的地位も失い、収入も減少し、外観も衰え、加齢臭や口臭も強まり、記憶力や知力も衰える。アンチエージングや不老長寿の薬や魔法に頼りたくなるのが人情だろう。だが、老いは確実にやってくる疫病神だ。しかし、老いるだけでは緊急の危機感にはつながらないだろう。やはり、危機感は、病気や怪我によって現実のものとなるだろう。

3.病気や怪我について

 風邪のように治る病気ならあまり深刻にならなくて済むが、脳梗塞とか心筋梗塞とかがんとか命にかかわる病気にかかったときは、そのひとの人生が一変する。一般的には、死が迫ってくるという恐怖感ほど強いものはないだろう。あとどれだけ生きられるかを医師に告げられて錯乱状態に陥るものも多いと思われる。
 世界が暗く見え、精神は重く沈みこみ、いたたまれなくなって夢遊病者のように歩き回るかもしれない。あるいは、絶望のあまり、精神に異常をきたすかもしれない。泣き喚いたり、家族や他人に当り散らすかもしれない。
 医療システムは、そうした多くの病者を受け入れ措置することが求められる。体が不自由になれば、死ぬ前に介護をどうするかが重大問題になる。病者は介護者を巻き込まざるを得ないわけである。こうして、好むと好まざるとにかかわらず、病気にかかることが、大きな不安と重荷を自他共にもたらす。
 一般的には、病気になれば、医療費がかさみ収入は減る。死ぬまで生きることのたいへんさが目の前に襲ってくる。
 怪我によって骨折などをして、それが重い障害を残すことがある。その場合もまた、病気による肢体不自由者を取り扱うときと同様の問題が生じる。ただし、死ぬおそれについては、差し迫っていない場合もあるかもしれないが。

4.自分に死がせまったときの対応について

 死期が迫ったと思われるときに、どのように対処すべきかは、簡単には論じられない。
 哲学や宗教にもかかわる深遠な問題だと思うからである。
 しかし、現在のごくふつうの人間の立場から見れば、死の恐怖感は、重すぎて正常な感覚では受け止めることは出来ず、おろおろしてそれこそじたばたすることが予想される。そういう情けないような、覚悟仕切れないような、泣き喚くような、ありのままな感情をすなおにあらわしていいのだと、そう考えたい。潔く死んでいくことがかっこいいのだなどと考えなくなった多くの現代人の本音を肯定するような軟弱さを認めようじゃないかとお互いに言えればいいと思う。

 死にそなえて、遺言を書いたり、さまざまなことを整理しておくことは必要だろうが、死ぬ覚悟などできるはずがないのであって、死ぬ覚悟ができなくても決して恥ずべきではないということをはっきりさせておくのは、ひとつの重要な社会的知恵だと言ってよいのではなかろうか。