南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

美しい日本語

言葉をたいせつにしない国は滅びる。
独自の文化の根本は言語だから。
バルバロイとはわけのわからない言葉を話すひと=野蛮人ととらえられた例もある。
方言だって実は根が深い。

関東と関西。
東京と大阪。京都。神戸。奈良。
名古屋。
北関東。
東北。九州。瀬戸内。沖縄。
多くの方言がある。
微妙な格付けがある。

一般的に、東京のアクセントが主流。標準語。美しい響きがあると言われる。
                 冷たいという評価もある。
     関西弁は、やかましいとか品がよくないとか言われる。
           やわらかくてしたしみやすいという評価もある。

     出身地によっても、好みによっても、家族や交友関係によっても微妙に変化する。

     たとえば、沖縄に住めば、沖縄弁がなじんで親しみを感じる。

     東京出身のひとが関西に嫁に行けば、ひとりでに関西弁の影響を受ける。じょうずに関西弁を     話せるようになり、好きになることもある。

ところで、最近、いろいろ取り上げられている、店員の受け答え。

 「ご注文は、以上でよろしかったでしょうか?」
 「コーヒーのほう、食後にお持ちしたほうがよろしいでしょうか?」
 「お会計の方、全部で、3500円に なります。」
 
 「ここには、久保田なんかあったりしますか?」
 「すいません。ちょっと戻したりしちゃったのでえ、おしぼりいただけますか?」
 「はーい、幹事はわたしです~。先に飲み物のほう、オーダーするんでしたっけね?んじゃあ、みん  な、ひとりづつ飲みたいもん、言っちゃたりしてくれますか?よろしくぅ!」

 正確ではないかもしれないが、ま、こんな感じだろう。

 私見では、おおくの新しい表現は、「婉曲表現」=遠まわしの丁寧語だと思う。

 外国語では、仮定法というのがよくあって、現在のことを過去形で表現するとやわらかな感じが出るという例が多くある。

 たとえば、Could you tell me the way to the nearest station ?

 (=最寄の駅までの道を教えていただけませんか?)

 Can よりも Couldを使ったほうが丁寧な感じがする。
 
 したがって、よほどおかしくなければ受け入れてもいい表現がほとんどではないか、というのがぼくの意見だ。異論もあるだろうけど、誹謗中傷やエチケット違反でなければ、それほど目くじらをたてなくてもいいのではないだろうか?

言葉は動いていく。微妙な人間関係や社会の雰囲気を反映して移ろっていく。そういう柔軟さを否定すると言語活動がのびのびできなくなる。

 ある程度の評価はしていく必要があるとは思うけどね。なにが受け入れてもよくてなにが受け入れるのが望ましくないかどうかは、言葉の専門家や一般のひとも交えて検討はしたほうがいい。できるだけゆるやかな方向でね。

 みなさんはどう思いますか?