南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

村上龍=精神の自由

 きょうの日経朝刊におもしろい記事が載っている。

 村上龍はぼくが注目している作家だが、「小説の価値を、『精神の自由』を与えるところに見出す」ところに共感する。

 思うに、小説も詩歌もさらには音楽や美術などの芸術表現は、共通して、精神の自由を確保するところにあるのだと言って過言じゃないと思う。

 現実は、さまざまなしがらみによってがんじがらめになっている。

 たとえば、自分の存在は与件だ。選びようがない。日本人。親。遺伝子。家族や地域。
宗教や道徳。人間関係。生活のための妥協。生きるための演技。我慢。ごまかし。うそ。

 法律や条例。罰則。税金。料金。保険料。

 そういう不自由な束縛の中でややもすると見失いがちになる、自分自身というものを認識すること、
想像の中でありとあらゆる違法ではれんちで奇想天外な夢想にふけること。

 そうすることで、いわば、人間の狂気が解放される。切羽詰った精神状態から解放される。
自殺を思いとどまることができる。抑圧された精神状態から脱出できる。人間の存在のおそろしい真実を
見失わないでいられる。真理を追求し続けることができる。群集心理のおそろしさを見抜くことができる。世の中が危うい方へ行きかけたときに、安全な方向を見出すことができる。正気と
冷静さを保ち続けることができる。

 なんの役にも立たないように見える文学だって、実は人間存在のもっとも深い部分にかかわっているのかもしれない。

 そんなことを考えさせられた。

 さすが、村上龍だ。