南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

人間関係=その6(地域社会)(価値観の研究=その33)

 人間関係のひとつの重要な要素が、地域における人間関係だ。

 向こう三軒両隣とか、隣はなにをするひとぞとか、相隣関係とか、遠い親戚より近くの他人とか、隣の芝生とか、隣組とか、村八分とか、町内会とか、近所づきあいとかにまつわる言葉が多いのを見ても、人間にとって近所付き合いは気を使わざるを得ない人間関係であり、生きていく上で無視できない要素だと言ってよいだろう。

 江戸時代の長屋に比べれば、平成時代の近所付き合いはかなりちがった面があるだろう。
むしろ、近所付き合いが希薄化しすぎて問題視されている面がないとはいえない。

 地方と都会では事情は異なるだろうが、都会のとなり近所というのは、ほんとうに隣との付き合いがないことが多いような気がする。名前さえ知らないとか、顔をあわせたことがないという例はざらにある。

 留守にするからといって隣に一声かけるというものでもない。

 泥棒が入りやすい状況と言えば言えるだろう。

 たしかに、家族構成によって、近所関係は変わりうる。

たとえば、ちいさな子供がいる家族とおとなだけの家族とでは、付き合い方がかわるような気がする。

 子供を通して親が付き合いだすというパターンもよくある。

 老夫婦だけの家族だと、なかなか親しい隣関係は築きにくい。

 それにしても、人間にとっては、コミュニケーションというものが重要だと思うが、社会のシズテムが変われば、それに従うしかないだろう。付かず離れず、不信感や不安を感じない程度のあいさつぐらいは気をつけるとして、無理に付き合いを深める必要はないかもしれない。

 自分にとって、どういう交友関係を優先するかどうかを考えておけばいいのかもしれない。

 たとえば、家族、職場、学校時代の友人、恋人、趣味友達、地域といった具合に。

 地方では事情が異なるだろう。

 長く地元に住み続けていれば、否応なく人間関係は濃密になり、監視しあうような面も出てくる。きちんとあいさつしたり、町内会の行事や冠婚葬祭などにもかかわらざるをえない。

 うっとしい面もあるかもしれないが、人間が人間とのかかわりで生きていかざるを得ないと言う宿命を思えば、それを喜びにかえるぐらいの工夫や知恵をしぼる価値があるかもしれない。

 どうしてもそれがわずらわしいと思うなら、どこかへ引っ越さなければなるまい。

 見知らぬ人々の間で暮らすことの孤独感に耐えられるなら、都会のマンションぐらしはいいかもしれない。

 もちろん、ひとにはいろいろな事情がある。家族関係とか、メンツとか、経済状況とか、行きがかりとか、隠れた事情とか・・・。そういう事情を踏まえながら、自分で最適の地域社会を選ぶか、選びようのない場合はその域社社会でうまくお茶をにごしていくしかないだろう。

 他人の目としての地域社会はへたにつきあうとおそろしい敵にもなる。敵対することだけは避けなくてはいけない。最低限地域社会で悪い評判が立たないように気をつける必要はあるだろう。

 コミュニティーといえば聞こえはいいが、へたをすると、自分の首をしめるかもしれない。

 地域社会への用心を忘れてはならないと思う。